安寿の小径

北千住のスピリチュアルな占い師 安寿のブログ http://anju.cho88.com/

2022年のお花見

うっかりしていたら3月も今日で終わり、明日から4月です。

3月は卯月、季節が開く時です。

そこで占いでは、3月生まれの人は物事をスタートさせるのが上手な人、新しい事に前向きに取り組んでいく人と言われています。組織の中でアイディアを出したり、人がまだやっていない分野を担当すると伸びていてゆき吉となるそうですから、頑張りましょう。

 

3月といえば花見です。

3月20日の日曜日が満開だという事で、姉に誘われて、目黒川の桜を見に行ったのですが、その日はまだ6,7分咲きという所でした。

家に帰ってきたらこちらの桜の方が満開に近く、わざわざ電車に乗って見に行ったのが笑い話になってしまいました。

それでも目黒川の川べりの桜は水面に枝を垂れていて、とてもきれいでした。水と桜の組み合わせ、やっぱりいいですね。

 

今日は暖かで日差しもあり、陽気に誘われて花が散らないうちにと、朝ごはんもそこそこに近所の桜並木に行きました。

踏切から荒川土手まで、1キロ以上あるでしょうか、道の両側の満開の桜が両方から枝を差し交していて、いつもながら桜のトンネルは本当に見事です。

足を延ばして近くの公園まで行き、雪柳やチューリップや水仙など、春の花々も堪能し、ついでに野良猫たちにも会ってきました。

 

一昨年去年今年と、コロナでマスクを外せない春が続いています。東京は、また感染者が増えているのが不気味です。

その上、ウクライナでは惨状が続いていて、何となく気持ちが晴れない日々ですが、人間どもの世界など関係なく、桜は命を輝かせ、咲き誇って私たちの心に花の精霊のエネルギーを注ぎ、癒し元気づけてくれます。

植物の精霊たちは本当に優しく自己犠牲を喜びとしているのです。

今苦しんでいる世界中の人々に、この桜を楽しんでもらいたいと心から世界平和を願わずにいられません。

 

それなのに、戦争好きな人たちが、ウクライナ情勢を利用して危機感をあおり、平和憲法を改悪したり、核装備をもくろんだりしていて、油断ができません。

核兵器を持っても、使ったら人類滅亡なのですから意味がありません。危険なものは原発だけで十分です。

 

来年の春は、マスクもいらず、心を痛める出来事もなく、心から桜を楽しめるといいですね。

 

 

 

            北千住のスピリチュアルな占い師   安 寿

 

 

危うし!心の老化

一気に春めいてきました。

洗濯物を干す指先が痛いほど冷たかった二月とは打って変わって、暖かい日差しに春を感じます。

雪国の人ならずとも、春の日差しは気持ちを明るくします。

いつもの年なら、弾んだ気持ちのまま、友人と出かけたり、食事をしたりするのですが、今年はウキウキした気持ちが長続きしません。

コロナの感染者が東京ではまだ一万人近くいますし、結構な人数毎日亡くなっていますので、三回目のワクチンが済んだとはいえ、まだ安心して出かける気分にはなれません。

連日報道されるウクライナの状況にも気持ちが沈んでしまいます。

 

コロナ前は毎日のように出歩いていたのに、最近はすっかり出不精になってしまいました。

趣味だった歌を歌う事まで億劫になってきて、鼻歌もあまり歌わなくなりました。

積極的に何かをしようという気持ちになれなくて、これが「心が老け込む」という事なのだと実感し、ちょっと危機感を感じています。

 

それでも死ぬまで出来るだけ元気でいたいので、毎朝のストレッチと自彊術は頑張っています。

通院など午前中の予定のない時は、朝6時からFM放送の音楽番組を聴きながら1時間40分くらい体を動かします。

古楽の楽しみ」という音楽番組が特に好きです。音楽があるから、体操が続けられるのだと思います。

 

それと心を元気にするために心がけているのは、「自分が少しでも人の役に立っている」と思えるようなことをすることです。

占いの仕事をするのもそのうちの一つです。

お客様に「来てよかったです。気持ちが楽になりました。」と言っていただけると、本当にうれしいのです。

 

朝道路に落ちているタバコの吸い殻やごみを掃除すると気持ちがいいし、毎日通うジムでは、人にできるだけ親切にするのはもちろんのこと、トイレに入ったら、少なくなっているトイレットペーパーを交換するとか、ティシュペーパーが空になっているのを補充するとか、目立つゴミを拾うとかホントにちょっとしたことなのですが、自分がまだ少しは人の役に立てている気がして嬉しいのです。

たまに家族が来れば何かおいしいものを作って食べさせたいし、やっぱり人にしてあげるって、嬉しくて、自分が元気になれます。

これが仕事や義務だったりすると疲れますが、自分のできることをできる時にやるのですから、喜びなのです。

私のひそやかな心エネルギー補給術です。

 

 

 

                  北千住のスピリチュアルな占い師   安  

 

危険な独裁者 プーチン

今年は庶民の星に凶神が付いていますから、何かで庶民は苦労するのだろうと思っていました。

その何かは山、大地、地球を象徴する星が、変化の場所に並ぶので、自然災害だろうと思っていたのですが、まさかまさか、ロシアのウクライナ侵攻だったとは。

 

ただでさえ、コロナで世界中の人が苦しんでいるのに、自分の国だって大変なはずなのに、しかも中国でパラリンピックが行われているこの時に、なぜプーチン氏はこの時を選んだのでしょうか。

 

早速プーチン氏の生年月日を調べて、彼の運勢を占ってみました。

1952年10月7日、今年70歳。この記述が本当かどうかわかりませんが、これで占うと、確かに昨年まであまり勢いがなくて、今年から強運期に入ります。

今年は雷が二つ重なったような運勢で、威嚇する、驚かすという意味があります。

強気になって、自分の力を世界に示したくなったのでしょうか。

 

性格は非常にプライドが高く人を信じません。

気が小さく不安感が強い。脅威を感じれば、やられる前にやってしまうタイプでしょう。

頭がよく緻密で、万事用意周到ですが、カッときやすく、力で相手を支配しようとします。

彼の宿命には「乗っ取る」「集団を壊す」という特徴もあります。

 

政敵や自分に批判的な人たちを次々毒殺してきたのは、生かしておいたら安心できなかったからでしょう。

ウクライナの西側諸国寄りの姿勢がプーチン氏の不安?というより不満を掻き立てたようです。

しかし、ウクライナNATOに加盟したかったのは、そんな危ないプーチンを見てきたからでしょう。

プーチン氏自身の脅威がウクライナNATOに近づけたのに、それをロシアにとっての脅威だという理由にして、武力でウクライナを自国の支配下に置こうと侵略を開始したわけです。

 

核をちらつかせるプーチン氏のやり口は、刃物をちらつかせて脅すゴロツキのようです。

プーチンならやりかねないと、欧州も米国も、核戦争になるのを恐れて、経済制裁を強化する以上のことが出せません。

原発への攻撃だけは何とか脅しだけで終わってほしいですが本当に心配です。

 

プーチン氏今年は強運ですが、3月は凶神がめぐり、運気が落ちます。

思うようにいかなくなるので、3月は停戦のチャンスだと思うのですが、これは私の希望的観測に終わるでしょうか。

 

うまく停戦したとしても、ロシアへの経済制裁の影響は世界経済へも悪影響を与えずにはおかず、世界中の庶民生活が厳しいものになるでしょう。

ロシアは数年、経済的に厳しい状態になるでしょうし、世界的にもかなり長期間、経済的な混乱が続くでしょう。

とにかく、戦争はだれにとっても利益はないのです。

とりわけ一般庶民が苦しむことになるのです。

 

来年プーチン氏の星には凶神が付きます。今年やり過ぎると失脚するかもしれません。

ロシア国内の各地でも勇気ある人々が戦争反対のデモをしています。

ロシア国内でも反プーチンの世論が高まり、一日も早くプーチン氏が失脚しますように祈らずにはいられません。

 

でも世界を見渡せば危ない独裁者たちはたくさんいます。中国の習氏だって、ロシアのやり方をまねて台湾を手に入れようとするかもしれません。

 

でももっと怖いのが、安倍元総理や維新の会が言い出した「核共有」です。

米国の核兵器を日本に配備して共同運用するというものです。

 

米軍が駐留しているだけでも攻撃の口実になり日本は危ないのに、核を持ち込んだら、攻撃のいい口実ができたとばかり北のお坊ちゃまが喜んでミサイル飛ばしてきますよ。

北朝鮮に近い原発にミサイル撃ち込まれたら、日本は完全にアウトなんですから、余計に危ないことになります。

 

被爆国である日本はスイスのように永世中立国となって、世界の核兵器削減に尽力すべきです。

日本の文化力、技術力と災害支援活動などの平和的外交で世界と手をつないでいってほしいと思います。

世界平和に貢献している国を、どこの国が攻めるでしょう。

 

日本の米軍基地は、極東を自分の勢力下におきたい米国のためにあるのだと思います。

日本を守ってくれるなんて幻想です。自分の国は自分たちで守るべきです。

明治になったばかりの日本だって非力ではあっても外交の力で頑張ったのだから、出来ぬはずはありません。

 

コロナ対策だって、日本に入国する米兵への検査はいい加減で、日本から米国に帰る時の検査は厳しいものだったというではありませんか。

戦後80年近くになろうというのに、まだ米国支配、治外法権が続いているなんて、日本は情けない。

 

小さなウクライナが毅然として大きなロシアと戦っています。一日も早く停戦が実現し、ウクライナの国民と主権が守られますよう祈ってます。

 

 

 

                 北千住のスピリチュアルな占い師   安 寿

 

ストレスは怖い

年を取ると身体だけではなく、心も弱くなります。

ちょっとしたことが、すごいストレスになるのです。

昔母に「年を取ると、ちょっとしたことがスゴいショックなんだから、そんなきつい言葉で言わないで頂戴。」と言われたことがありましたが、今、その時の母の気持ちがよく分かります。

 

昨年から今年にかけて、身体の不調が続き、特に歯の治療がうまくいってなくて、それが最近結構なストレスになっています。

数十万円もかけて治療した歯が二本、もう一年近く調整してもらっているのに、いまだにどうもしっくりこないのです。

噛めないわけではないのですが、ちょっとした弾みに舌をかんだり、舌が擦れたり、時々痛かったり不快な事が多く、長くこの状態が続いたら舌癌になるのではないかと心配になりだしてきました。

 

その上一月下旬から確定申告の準備が始まり、それがようやく終わったと思ったら、スマホにしょっちゅう『容量が足りない』という警告表示が現れるようになり、必死の思いで機種変更して、その使い方に悪戦苦闘しているなかでレンジが故障し、買い替えることになり、私にとってはストレスの連続でした。

若い時なら新しいものに変えることは喜びだったのでしょうが、知的年齢も老化すると慣れているものが一番になるのです。

 

お若い人にはわからないでしょうが、パソコン、スマホ関係は一部の高齢者にとってはチンプンカンプンなのです。

細かい字でびっしり書かれた文に「同意する」かどうか求められ、「簡単に同意して大丈夫かな?」と不安になり、かといって細かい文字を読む気にもならず、そのあたりで躓きます。

或いは、aかbかcかの選択を迫れらるのですが、aを選んだらどうなるか、bやcを選んだらどうなるのか分からないので、途方にくれます。

説明書を読んでも、知りたいことが書いてないのです。

或いは説明書を読んでも単語の意味が分からない。

スマホやパソコンは便利ですが、うまく使いこなせない人間にとっては本当にすごいストレスです。

 

ストレスが体に悪い影響を与えるという事は知っていましたが、今回ホントにそれを実感しました。

スマホと格闘していると、目が痛くなり、肩が凝り、口の中はカラカラ。

ギブアップして休憩するのですが、分からないという不安が胃のあたりにとぐろを巻いて、ドヨンと重く、食欲がなくなります。

 

これではいけないと、気持ちを切り替え、食事の支度をしようかと思うのですが、食欲がないので情熱が湧きません。

ぐったりして出るのはため息ばかり。

 

3年ほど前、私の知人二人が偶然同じころに、一人は仕事のストレスから、もう一人はご主人の病気のストレスから、次第に痩せ始めてしまったのです。

2人とも以前は私などよりずっと元気で、よく運動もしていたのに、一年後には頬もげっそりこけて、ガリガリにやせてしまいました。

歩き方もフラフラと力なく、ゆっくりです。いわゆるフレイルという感じ。

元気な方たちの変わりようにびっくりし、そんな風になるにはどんな事があったのだろうかなどと思っていたのですが、今回の経験で、はたから見れば大したストレスではないようでも、本人にとっては深刻で、小さなものでもそれが重なれば、軽いうつ状態になり、それが悪化する危険がだれにでもあると実感しました。

 

私の場合はここ4,5日のことなので、今が頑張り時です。

今朝目覚めた時も胃のあたりが重く、気分がどんと落ち込んでいたので、これは危険だと思い、1時間半瞑想しました。

そのお陰で気持ちが少し軽くなり、やる気も出て、今このブログを書いています。

胃のあたりはまだすっきりしませんが、何とか食事はとれるようになりました。

スマホもやっと基本動作を覚えたので、何とかメールも電話もラインもできます。

電子レンジもホントに使いやすい、単純に温める機能だけのものを選び、やっと届きました。

 

何とか危機を脱した感がありますが、また歯科治療でどうなる事やら。

 

自分の気持ちが落ち込んでどうにもならない時はやっぱり瞑想の力にすがるしかありませんね。

頭ではわかっているのです。そんなに心配することはない、取り越し苦労だ、考えすぎだと。

でも困ったことに身体に理性の言葉が届かないのです。身体が反応してしまうのです。その危険を今回すごく感じました。

本当にストレスは怖いものです。

 

今回の経験で気づいたことは、一人暮らしの老人は全てを一人で背負わなければならず、危険と隣りあわせだという事です。

困りごとを共有できる配偶者や家族がいれば、それほど落ち込まなかったと思いますが、私も一人暮らし、先に述べた友人の一人も一人暮らし、ご主人が入院した友人も、ご主人が入院したことで一人暮らしに近い状態でした。

 

これからも一人暮らしの高齢者がますます増える一方です。

アーミッシュのネットワークは望むべくもありませんが、一人暮らしの高齢者を見守る高齢者同士の地域活動が必要かもしれませんね。

 

 

 

             北千住のスピリチュアルな占い師    安 寿

 

アーミッシュの老人たち

アーミッシュの暮らしに癒しを感じるのは私だけではありません。

実はアメリカでも古き良き時代の生活を思い出させるアーミッシュのコミュニティへの観光が盛んになっていて、アーミッシュブームともいえる現象が起きているのだとか。

 

お菓子やキルトや木工製品の小さな店を出したり、レストランやアーミッシュ体験ツアー客のための宿泊施設など、いずれもアーミッシュらしく、小規模な商売を始める人も出てきて、彼らの心のこもった仕事ぶりはなかなかの人気だそうです。

そこでも活躍しているのが、農地を息子世代に譲ったお年寄りたちです。

高齢者のホームワーキングも盛んで、キルトや木工製品などを作って、作った製品をギフトショップに卸したり、若い世代に交じって、多くの高齢者が生き生きした様子で働いているという事です。

 

アーミッシュのお年寄りたちは忙しいのです。

アーミッシュは経験に裏打ちされた知識と知恵を持っているお年寄りを敬い、何かあれば彼らに意見やアドヴァイスを求めそれに耳を傾けます。

ですからお年寄りは大家族の中心であるだけでなく、教区の中でも果たす役割は大きいのです。

長年受け継がれてきた保存食やキルト作り、納屋造りなど、アーミッシュの伝統を次の世代に伝えるという役目を担っています。

 

現役を退いた老人たちは子供たちに大きな家を譲って、その後ろや隣に自分たちの小さな家を建て、そこで暮らします。

身体が動くうちは子供たちの家庭や教区の隣人たちのサポート役として、或いはアーミッシュ観光の担い手として忙しい日々を送っています。

 

「農業や家事を手伝いながらおしゃべりを楽しみ、孫たちの世話をしながらその成長に目を細める。」

「待っていてくれる人がいて、頼まれる仕事がある。ここにも私の居場所があると思うと心の底から幸せな気持ちになるんだ。神のお計らいによって、私はこの世にとどまり、沢山の恵みを受けている。それだけでも幸せな事なのに、自分が必要とされ、誰かの役に立っていると思えることは、身に余る幸せだよ。」

と、アーミッシュの老人たちは語ります。

 

年寄りには「きょうよう」が必要だと言われています。「きょうよう」とは「今日、用」の事で、「今日、用事がある」という事で、つまり、「今日、やることがある」という状態が、心身の老化を防止するのにとても大切だという訳です。

そういう意味でもアーミッシュの老人たちは身体の動く限り忙しく、平均寿命もアメリカ人の平均寿命より長いのだとか。

 

当然のことながら助け合いのネットワークがしっかりしているアーミッシュの高齢者はその7割以上が自宅で亡くなり、老人施設や病院、ホスピスで亡くなる人は多くないと言います。

老人施設への入居は自由ですが、入居する人は非常に少ないという事です。

「老人ホームに入りたがらないわけでも、親を老人ホームに入れたがらないわけでもなく、その必要がないだけ」なのだそうです。

家族や親族、コミュニティーの人たち、ホスピスなどの訪問看護所のサポートを受けながら在宅で最期を迎えるケースが多いのだそうです。

 

一つのコミュニティー(大体25から30世帯)で介護の必要な高齢者は多い時で3,4人位、その介護度は様々で、それぞれの介護度に合わせて、みんなが自然に役割分担をしているのだそうです。それというのもみんな多かれ少なかれ介護を経験しているので、お年寄りの状態に合わせた関わり方ができるのだとか。

 

アーミッシュの人たちの生死観はあるがままの老いと向き合い、老いのありのままを受け入れるというものです。

アーミッシュの患者を往診するお医者様の話を紹介します。

「患者の年齢にかかわらず、死を目前にした患者は意識があればですが、本人も家族も冷静です。―中略― はじめは彼らの冷静さは自分で意識してそう仕向けているからだと思っていました。でもやがて気付いたのです。彼らは自分自身をコントロールしているのではなく、私たちをコントロールしている自然を受け入れているのだと」

『主は与え、主は奪う』すべては神の大きな計画の一環であり、人の生や死も神の意志に基づいていると考えるアーミッシュの人々。

 

『多くを与える者は多くを与えられる』という言葉が聖書にありますが、正に、コミュニティーのために働き、コミュニティーのネットワークのために力を尽くし、親戚家族友人のために惜しみなく自分をささげてきたからこそ、このように素晴らしい人生の終焉が迎えられるのですね。

本当にうらやましい限りです。

 

私はと言えば、自分を優先し、面倒な事は外注してきた付けが今自分の老後に回ってきています。

自分の蒔いた種ですから、覚悟して引き受けるしかありません。

しかし、残り少ない人生とはいえ、まだ改善すべき時間が残されていると思います。

この本との出会いも意味のある事です。反省して、今からでも人の役に立つような生き方を、もっともっと意識的に心がけていこうと思います。

 

堤さん、良い本を書いてくださって、有り難うございました。

(引用文は全て『アーミッシュ 老いと終焉』堤純子著より)

 

 

 

               北千住のスピリチュアルな占い師   安 寿

 

 

アーミッシュに暮らし方を学ぶ  2

アーミッシュの電気を使わない昔ながらの不便な生活は、人と人との助け合いで成り立っています。

子供たちは幼いころから大人たちの中で助け合いの大切さを自然に学びます。

「誰かのために行動することがただ相手の役に立つだけでなく、相手にも自分にも幸福感と優しさをもたらすことを身をもって感じてきた。だからこそ、彼らは周囲からの温かい申し出を喜んで受け入れる。―中略―『自分でできるから』と拒絶したり遠慮したりせず感謝して受け入れることが互いを幸せにすることをよく知っているのである。」(引用文は全て「アーミッシュの老いと終焉」より)

 

『周囲からの温かい申し出を喜んで受け入れる』この言葉は私に大切なことを教えてくれました。

人に何かすることは積極的に心がけてきた私ですが、していただく時には申し訳ないとかすごく遠慮してしまう自分がいます。

して下さる方にも『幸福感と優しさをもたらす』のですよね。

確かに人に親切にすると、自分が少しお役に立てたことが嬉しくて、とても気持ちがよくなります。

たとえ相手の方が喜んでくださらなくとも、神様が喜んでくださると思うと励まされます。

年を取ってどんどんできないことが増えていき、誰かのお世話なしでは生きられなくなった時に、この言葉はたくさんの遠慮がちなお年寄りの気持ちを和らげてくれると思います。

この事を知っていれば、穏やかな気持ちでお世話になれます。

 

「世話になりたくない。」「迷惑をかけたくない。」という気持ちで自立を心がけることは大切かもしれませんが、その事にあまり囚われれば、かえって可愛くないお年寄りになってしまうかもしれません。

恐縮ばかりしていないで、明るく素直に感謝して援助の申し出を受け入れられる自分になりたいと思います。

 

昔はもっと助け助けられる人と人とのネットワークがありました。不便な分、貧しい分、助け合わなければ生きていけない厳しさがあったのだと思います。

そこには個人の自由を押し潰してしまうマイナスの部分もあったに違いありません。

そんな息苦しさや束縛を嫌い、社会の発展と個人の生活基盤の変化により、特に先進国では個人の自由や欲求を大切にする社会を求め、核家族化が進んだのでしょう。

「お互いに頼んだり頼まれたりすることへの遠慮やわずらわしさ」から逃れるため、引っ越し、冠婚葬祭、保育、介護、掃除などの日常生活の外注化も進みました。

「社会が複雑になり、各々価値観や生活様式、生活時間帯までもさえ多様化している昨今、親戚や近隣の人たちとの密接なかかわりが互いの負担になりかねない事をそれぞれが分かっている。手助けしたくても、時間的、物理的な負担が大きすぎる。日常生活の外注化は、気楽で合理的な暮らしをもたらしてくれる半面、地域とのかかわりの希薄さが地域への帰属意識を薄れさせ、自分のルーツの見えにくさが、私たちに根なし草のような寄る辺のなさを感じさせるし、子供の経験値アップにつながりにくいという問題点もある。」

 

確かに今の若いお母さんたちの中で、子供の頃子守を経験したことがある人はごく少数ではないでしょうか?

私は小学生の頃、年の離れた姉たちが里帰りしてきた時、姪や甥の子守をさせられていました。時には近所の子供の子守をしたこともあります。

妹や弟をおんぶして一緒に遊んでいた子もいました。

 

自分が母親になった時は仕事をしていて出産前の講習会に参加できませんでしたが、母や姉が赤ちゃんをお風呂に入れたりおしめを変えたりするのを見ていましたし、その経験のお蔭で自然に赤ちゃんの世話ができたと思います。

 

お爺さんお婆さんが身近にいなくて、人が老いていくのを経験せず大人になっていく子も多いでしょうね。

我が家もそうですが、そういう子供たちに自分の老後はお願いできません。

 

アーミッシュのコミュニティには助け合いという人間関係があり、昔の暮らし方を維持するための厳しい決まりがありますが、息苦しさや束縛を感じないのでしょうか。

アーミッシュだって人間関係を煩わしい、規則が重いと感じることはあるでしょうが、彼らと一般の人が違うのは、決まり事や助け合いが、コミュニティや人から強制されたものではない事と信仰心の強さだと思います。

アーミッシュは、人は一人一人が「神の善」を実現するための役割を果たしているという強い信念を持っています。

「個人と他者とのかかわりの中での自分ではなく、神という絶対的な存在を通じて他者と関わっている。このことが彼らの強い絆を生み、安心感をもたらすのである。」

アーミッシュは全ての人には神から与えられた役割があり、それぞれが今置かれている場所でその役割を果たしていると考えている。それが相手を尊重し、さまざまな立場や状況の人たちの言葉に耳を傾け、その行動から多くを学ぶ姿勢につながっている。」

 

「完璧な友人を求める者は、ずっと独りぼっちだ」

つまり、人は不完全であり、お互いが許し許され、受け入れ合う存在であることを知っていて、またそれを日常的に実践している人たちだという訳ですね。

 

このような思いを持つ人々の中で暮らせたら、70歳すぎてもまだまだ未熟な私も許され受け入れられて、穏やかに暮らせそうな気がします。

 

「えぇ?アーミッシュの人たちってそんな穏やかな人格者ばかりなの」と思われる方もいらっしゃるでしょう。

その方に、次の言葉を贈ります。

「私たちは特別な人間ではない。怒ったり妬んだりするし、言い合いをすることだってある。 -中略― イエスと同じ行いをする聖人君子などではなく、そのように生きたいと努力しているだけの存在にすぎないのよ」

 

『そのように生きたいと努力する』この事が本当に大切なのですよね。

アーミッシュキリスト教徒。でも同じキリスト教のローマカトリックが彼らを迫害し、拷問にかけ、殺したのです。

同じ聖書に書いてあることを学んだはずの人たちがこうも違うのはなぜでしょう。

権威の上に胡坐をかき、神の言葉を自分に都合の良いように解釈してしまうからなのでしょう。

「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」と、たしかイエス様がおっしゃったはずなのに、世界中のキリスト教国の人たちはあちこちで戦争を起こし、市民まで殺しています。

人が飢えているのに、莫大な費用をかけて人類が滅亡するほどの殺りく兵器を生産しています。

 

信仰は知識ではなく実践です。その意味でアーミッシュを見習いたいと思います。

 

キリスト教だけでなく、どんな宗教でも平和を説き、愛を説いているはずです。

人間同士も、人間と自然も調和していかなければ、人類はやがて滅んでしまうのではないでしょうか。

世界中の人がそれぞれの宗教のことばを正しく理解し、それを実践してゆけば、どれだけ世界は平和になり、調和が実現されていくことでしょうか。

ため息が出るばかりです。

 

嘆いてばかりもいられません。

神様のために残り少ない命を役立てるにはどうすればいいか教えて下さいと毎日祈りつつ、今、自分が置かれている場所で、自分にできることを精いっぱい頑張るのみです。

 

 

 

               北千住のスピリチュアルな占い師    安 寿

アーミッシュに暮らし方を学ぶ  1

年明け早々、トンガで火山の大噴火。毎朝聞いているFⅯラジオからはずっと津波の情報が繰り返し流れていて、緊張感が伝わってきます。

 

ここ数年、毎年のように世界各国で、もちろん日本でも大洪水や大規模な山火事が発生し、昨年のアメリカの大規模竜巻とか、人間の自然環境破壊に対する大自然の怒りのようなものを感じます。

 

自然環境をこれ以上に悪化させないために、人間は、特に先進国の人間は、今までのような便利で快適な生活を求めてはいけないのではないかとずっと思ってきました。

大量生産大量消費が地球環境を悪化させたことは間違いないのですから。

 

便利で快適な生活と引き換えに失ったものは、自然環境ばかりではありません。

利益や効率ばかりが求められる切り捨て御免の激しい競争社会。自己責任論。貧富の格差や人々の分断、分裂。

17歳の高校生が東大前で人に切りつけたり放火しようとしたというニュースもありました。

人の心に余裕がなくなり、だれもが精いっぱいで、若者の心までが蝕まれてしまうような世の中になった原因も根は同じだと思います。

 

そんな時、ふと目にしたのが堤純子さんの『アーミッシュの老いと終焉』(未知谷)という本でした。

(以下、「」内の引用は全て『アーミッシュの老いと終焉』(未知谷)からの引用です)

 

アーミッシュという言葉ですぐに思い浮かんだのが彼らの古風で独特な服装と畑で祈りをささげる情景で、昔の生活を守り続けている彼らの暮らしの中に何か学ぶものがあるのではないかと思いました。

 

アーミッシュというのはアメリカのペンシルバニアを中心に、1800年代の農村の暮らしを200年以上も守り続けて暮らしている人たちです。

電気や自動車、自転車、テレビやラジオはもちろん、洗濯機や冷蔵庫もない不便極まりない暮らしを、なぜ彼らは続けているのか、実際どういう暮らしなのだろうと興味津々でさっそく読んでみました。

 

アーミッシュは、ローマカトリック教会からの弾圧を逃れて、アメリカのペンシルベニヤに1737年に移住してきたプロテスタントの人たちで、わずか21家族から始まったコミュニティーだそうです。

彼らはイエスの教えを尊重し、それを日常生活に取り入れることを旨とし、お互いに助け合いながら暮らしています。

 

30世帯ほどの教区を中心に一つのコミュニティーが形成され、教区内ではもちろん、各教区も密接な助け合いのネットワークで結ばれているのです。

彼らの助け合いの根底には、「小さきものに奉仕することは神に奉仕する事である」というイエスの教えがしっかりと根付いていますから、助け合う事がごく自然なこことして、また喜びをもって行われています。

 

教区の中心である教会の司祭や役員を選ぶことも、日常生活の約束事を決めることも、全て皆の話し合いで決まるという、徹底した民主主義が行われているようです。

決定に至るまでに徹底した話し合いがもたれ、コミュニティーの存続を大前提に、アーミッシュとしてどう生きるべきかを念頭に置いて、お互いの権利を尊重しながら話し合いを重ねるのだそうです。

 

だからアーミッシュの中でもその教区によって日常生活の決まり事は異なっています。例えば最近では仕事に必要な携帯電話やパソコンなども制限付きで認めている地区もあるのだとか。

 

なぜ彼らはこんな不便な生活を続けているのでしょうか?

それはイエスの教えを守るためなのです。

「人間の欲にはきりがなく、便利でいいものを手に入れればもっと多く欲しがるようになり、持つ者と持たざるものを生み出す。そこに悪しき自己中心や傲慢さ、妬みなどが生まれ、それが人間関係にひびを入れる。人間は弱い。自制していても欲にかられ所有欲を満たしたくならないとも限らない。だから一般社会と一線を画し、世俗に染まることなく、イエスの教えに沿って生きるため、便利な発明品の利用を規制している」という訳です。

 

日常生活に便利なものを取り入れるかどうか決める時も、イエスの教えに反することにならないかどうかがその判断基準になるという事です。

 

彼らにとっての規制は人から押し付けられたものではなく、自分たちが納得して決めたことだから、不平不満が出ることはありません。

 

カトリックでは幼児洗礼ですが、アーミッシュは成人してから自分がアーミッシュになるかどうかを決めます。

アーミッシュには自分たちの学校があり、そこを卒業すると、ラムシュプリンゲという期間が設けられ、若者たちはアーミッシュの制約から解放され、家族の一員としての仕事以外、自由に行動することが許されます。

彼ら若者がマックでアルバイトをしたり、若者同士で部屋を借りたり、酒を飲んだり一般の若者がすることを自由に経験するのは言うまでもありません。

「洗礼を受けるかどうか迷いながら若者たちは外の世界でさまざまな経験をし、最終的な決定を下す」のです。

その期間は決められておらず、それぞれが心を決めた時がラムシュプリンゲ終了の時です。

若者の実に80%から90%がアーミッシュとして洗礼を受けることを決めるそうです。

やはりアーミッシュの暮らしには、人を惹き付ける強力な魅力があるようです。

 

だからアーミッシュの人口はどんどん増えています。20世紀始め約5000人だったアーミッシュが、2018年には325,000人です。

もちろんアーミッシュの家庭は子沢山で一家族7人以上の子供がいますが、でもその子供たちがアーミッシュを選ばなければ増えることはありません。

 

「神は『富を得ようと苦労してはならない。賢く思いとどまるがよい』とおっしゃる。お金や物は持てば持つほど欲しくなるし、手に入れようとアクセクすると、心の平安とゆとりをなくしてしまう。また、神がお嫌いになる『高ぶる心』つまり、うぬぼれと思い上がりが生まれる。」

というアーミッシュの人の言葉は本当にその通りだと思いますが、現代の都会での生活は何かとお金がかかり、嫌でもアクセクせざるを得ない面もあると思います。

 

それでもやはり、物は最小限で、出来るだけ質素に暮らすことが心の平安と自然環境に優しい暮らしだという事は言えるでしょう。

 

戦後すぐ生まれた私の子供時代は、電話もクーラーもテレビも冷蔵庫も洗濯機も石油ストーブすらありませんでした。

夏デパートに行くと大きな氷柱が所々に置かれていて、そこにハンカチを押し当てて自分のおでこを冷やしたり、夏は日向にたらいを出して、子供は太陽光で温まったたらいの水で行水です。

冬は父が外で練炭に火をつけて、部屋の火鉢まで持ってきます。その練炭に灰をかけて火鉢にいけるのが、当時小学校低学年だった私の役目で、結構上手にやって楽しんでました。

 

練炭で餅を焼いたりスルメを焼いたり、ふざけてミカンを焼いたりして、それも楽しい思い出です。

部屋を暖めるだけのエアコンやガスストーブでは遊べませんよね。

 

考えて見れば、昔の暮らしは親たちは大変だったと思いますが、子供には喜びや楽しみの多いものだったような気がします。

大人たちも、町会の活動や地域のお祭りを楽しんだり、寄り集まっては井戸端会議に花を咲かせたり、なんだかゆとりがあった気がします。

 

アーミッシュの人たちにはかないませんが、そんな経験をした私たち世代は、今昔に戻ったとしても、何とか生きて行けそうです。

工夫しながら生きるのも楽しいですしね。

 

私の年頭の誓いは、まず物を買わない、捨てない、出来るだけリサイクルしゴミを減らすですかね。

特にビニールやプラスチック製品はできるだけ使わないようにするとか。

ささやかな抵抗ですが、やる気が大事。これまで以上に頑張ります。

 

 

 

                  北千住のスピリチュアルな占い師   安 寿