澤地久枝著『石川節子』(講談社)を読んで、彼女の生涯、彼女の生き方に深く感動しました。
皆様ご存じの通り、石川節子というのは石川啄木の妻です。
尊敬する方を「節子」と呼び捨てにしたくないので、節子さんと呼ばせてください。
石川啄木は、映画やお芝居などでたびたび取り上げられているので、彼の短い生涯については、何となく知っていましたが、改めて詳しく知ってみると、やはり彼は神に選ばれし天才だったに違いありません。
しかし、彼はその才能の故か、一人の人間として、また一人の男性であり夫としては、欠落の多い人でした。
その欠落を補い、支えるべく、神が節子さんという聡明で勇敢で、強靭な魂の女性を娶わせたに違いありません。
節子さんもまた、神に選ばれし者だったのだと、この本を読み終えた時に強く感じました。
啄木は釧路時代に遊びを覚えて、東京に来てからも浅草に買春に通います。
文学を通じて知り合った女性にも恋文を送ったり、全く妻を気にせず、浮気のし放題です。
当時の男性なら、普通なのかもしれませんが、あんなに傷つきやすくロマンティストな啄木が、大恋愛の末射止めた妻の心をこんなにも考えずにやりたい放題できるものかと驚きです。
啄木と知り合った時、節子さんはまだ15、6歳の少女でした。
文学を通じて啄木と知り合い、幼いと言ってもよい年齢なのに彼の才能をいち早く見抜き、誰よりも評価したのですから、彼女の知性も感受性も啄木に負けぬくらいのものがあったのではないでしょうか。
更に節子さんは、彼が世に出ることを誰よりも信じて応援しました。それは終生変わらず、その気持ちが、悲惨な結婚生活の中にあって、明るい希望となって彼女を支え続けたのではないかと思うのです。
節子さんの父親は岩手郡役所に勤めた官吏で、節子さんは私立のミッションスクールへ通い、ヴァイオリンを弾く、苦労知らずのお嬢様でした。
しかし、節子さんは幼いながらも啄木の才能を見抜き、自分が愛すると決めた人を愛し抜こうと両家の親たちの反対に立ち向かう、自我のしっかりした意志の強い少女でした。
この恋愛を通して「まだ十八歳の、少女のような堀合節子は、寡黙にして行動的な娘としての片鱗を見せ始め、言行一致の女の顔がのぞきはじめる。」(本文からの引用)
啄木の父は渋谷村宝徳寺の住職で、一男三女の長男である啄木は、母のカツに溺愛されていました。
盛岡尋常中学校へは優秀な成績で入学したのですが、最終学年の5年生になる頃は、欠席が多く、カンニング事件を重ねて譴責処分を受け、自分から退学届けを出してやめてしまいます。
2人の恋が始まったのはそれより三年位前だとか。
文学が二人を結び付け、恋は年ごとに深まり、特に啄木が学校をやめて、東京へ旅立っていくあたりから、結婚を前提とする恋人同士になっていきます。
才能はあるかもしれないが、生活手段のない男との結婚に親が賛成するはずもなく、父親に啄木との交際を反対され、軟禁状態で文通すらできなかったのですが、節子さんの想いは強まるばかり。
反対すればするほど固く結びついていく2人に、親たちも負けて、2人の結婚が認められます。
母に溺愛された啄木は、自己中心的でプライドが高く、金銭感覚はルーズ。問題が起きると、正面から向き合おうとせずに逃げる。
この性格は、彼の父親そっくりです。
啄木の父は寺の住職だったのに、借金が原因で懲戒解雇され、その後も働こうとせず、定職もなく、文学で生きて行こうと夢見ている未熟な20歳の啄木に一家の生活を委ね、一家がいよいよ窮すると、口減らしのつもりなのかもしれませんが、妻と娘を残して、自分だけ失踪するような男です。
友人たちの援助で、やっと詩集「あこがれ」を出版したばかりで、生活費を稼ぐ当てもない若き文学青年に実家を支える責任、節子との生活を支える責任、自分の文学を開花させるための活動、結婚を目前に、それらが一気に押し寄せてきたのです。
東京で節子との結婚生活を始めるつもりで上京していた啄木は、五月末の結婚予定日の半月前に東京を後にしますが、皆が待つ盛岡へは帰らず、あちらこちらをさ迷います。新婚生活に立ち込めた暗雲に、若き啄木は悩みぬいていたのでしょう。
その時仲人役をつとめた友人たちが心配して、節子さんに結婚中止を勧告したのですが、節子さんは啄木が彼女に送ってきた長文の手紙をその友人らに見せて、結婚の意思をはっきり示したといいます。
その時の節子さんの言葉が澤地さんの本の副題になっています。
「吾はあく迄愛の永遠性なると言う事を信じ度候」
なかなか現れない啄木に、節子が全く不安を感じていなかったのかと言えば、たぶん不安だったと思います。その不安を乗り越えてのこの言葉です。18歳の節子の純粋で一途な心の強さを感じます。
結婚を待っている節子のもとに啄木が姿を見せたのは半月も過ぎた6月4日の事でした。
何とか結婚生活が始まりますが、甘い新婚生活はほとんどなく、啄木の家族との同居で、彼を溺愛する姑のカツの厳しさに節子さんは耐えなければなりませんでした。
夫に定職は無く、雑誌を発行したために借金まで抱え、一家5人の暮らしはさぞ厳しいものでしたでしょう。質屋通いはもちろんのこと、借金を頼み歩いたり、借金返済の言い訳をしたりの生活が続きます。
同人誌の仲間や、彼の才能を愛する沢山の友人や知人たち、驚くほど多くの人が啄木に金を貸してくれたり、仕事の世話をしてくれたりと、一家を支えてくれます。
それを見ると、啄木はその才能を買われているだけではなく、人としても支えてあげたくなるような魅力を持った人だったのだろうと思います。
しかし、そんな多くの支えがあっても、それでも啄木の両親と妹光子と啄木夫婦、翌年に生まれる長女、石川一家は米櫃の底がいつも見えるような貧乏暮らしから抜け出せませんでした。
啄木は代用教員の職に就いたり、釧路の新聞社に勤めたりするのですが、無断欠勤など勤務態度に問題ありなど、結局は仕事を辞めざるを得なくなってしまい、どこも長続きしません。
東京朝日新聞社の校正室での仕事が最後となりますが、まともに給料をもらっても、真っ先に妻子に送金すべきところ、釧路時代に覚えた酒や女遊びに遣ってしまい、給料の前借までしていたというのですから呆れます。
やっと東京で姑のカツと、節子さんと長女が啄木と一緒に暮らすようになりますが、その約2年後、こんどは病が一家を襲い始めます。
姑のカツに結核が潜伏していたようで、節子さんは函館時代から体調が悪くなっていましたが、身体の弱い啄木が先に発病し、カツは結核で寝込んでしまいます。
その頃3人目の子供を身ごもっていた節子さんの具合も次第に悪くなりますが、2人の看病と家事をこなし、薬を買いに行ったり、給料をもらいに行ったり、動かざるを得ませんでした。
幸い新聞社の情けで給料は支払われていましたが、もちろん十分ではなかったようです。
セイフティーネットがなかった時代は、本当に大変だったのだと身につまされます。
死の床にあってもプライドの高い啄木は節子さんが実家に帰ることに反対していました。
「どうやって幼い子とこれから生まれる子を育てればいいんですか?」と、普通なら夫に詰問してしまう所ですが節子さんは「私は帰りません」と答えたといいます。
ただ忍従したのではなく、節子さんは夫の気持ちを大切にしたかったのだろうと思います。
『節子は夫の死をすでに覚悟し、最後の日々の夫の甘えが嬉しかった。遠くにいた夫の心も体も、いま節子の腕の中にあった。』と、澤地さんは書いています。
その通りなのでしょう。
満7年にも満たない結婚生活で同居したのは5年もないとのこと。
短かったけれど、人生の苦労を味わいつくした節子さんの人生。
カツと夫が相次いで亡くなり、幼い長女と2人になった妊娠8か月の節子さんは、それでも夫との約束を守り、実家へは帰らないで啄木の妹の伝手で、キリスト教福祉団体の異国の人の庇護のもとに身を寄せて、子を産む決意をしました。
寝たり起きたりの生活をしながら、節子さんは啄木の遺稿に目を通しそれを「調書」にまとめ上げます。
啄木が焼くように遺言した日記を焼くことはしませんでした。
「この調書を作成するために、節子は夫の日記をかなり詳細に読んだ。夫がかくしていた行為も、節子に対する感情も一緒に読まざるを得なかったのである。」
「夫がかくしていた行為」とは啄木の様々な女性関係のことで、妻が読むには苦しい内容です。
それでも節子さんは自分の感情に溺れず、冷静に夫の日記を評価したのでしょう。
並の女性では出来ないことです。
「啄木の日記はその作品を補うとともに、独自の高い証言性をもち、啄木評価の上で不可欠のものである。そこには、啄木が身をもって切りとった赤裸々な『明治』という時代がある。」
「文学も思想も含めて、啄木の人生は辛うじて節子によって『完成』させられる。これが啄木と節子の悲惨な結婚生活の『成果』であった。」
と、澤地さんは書いています。
「野太い向日性の女。それが本来の石川節子であったように思える。窮死した啄木は、節子のこの強さによって、現在残された作品群の作者としてその命を全うすることになった。それが『吾はあく迄愛の永遠性なると言う事を信じ度候』と書いた節子の答えであった。」
啄木が亡くなった1912年の6月14日に節子さんは女の子を産み、翌日から発熱。自分の健康の事もあり、ようやく9月に実家のある函館に帰ります。
1913年、4月13日啄木の一周忌 この時節子さんは重体。
5月5日 7歳の長女京子と生まれたばかりの房子を残して節子さん逝去。27年の生涯でした。
この本を読み終えた時、不思議と悲壮感はありませんでした。
なぜなら、節子さんは啄木の犠牲者ではないからです。
啄木に翻弄された人生のように見えますが、それは表面で、啄木の妻である事を自ら選び、彼を支える事を自分の使命と心得、節子さんは主体的に自分の人生を見事に生き切ったのです。
次から次と降りかかってくる困難と勇敢に闘い、一つ一つ乗り越えた続けた見事な人生でした。
今のように女性が自由に仕事に就ける時代なら、間違いなく節子さんは仕事を持ち、夫や夫の家族を支え、結核になっても生き続けることができたであろうにと、残念に思います。
啄木の歌は確かに心に沁みるものがあります。
しかしそれよりも深く私の心を揺さぶったのは、幼い愛を貫き通し、命尽きるまで夫を支え続けた節子さんの見事な生き方です。
全力を出し切り、完全燃焼した節子さんの一生は輝いています。
この世を去る時、自分に満足して、幸せな気持ちで旅立てるかどうかは、やはり自分がどれだけ自分の力を出し切って生きてきたかという事にかかっているのだと思います。
試練の多い人生は大変だけれども不幸ではありません。
それを乗り越えることにこの世で生きる意味があり、乗り越えてきた自分に満足できるからです。
この世で与えられる試練は、その人の力量に見合った試練ですから、私など、節子さんの足元にも及びませんが、私は私なりに悔いのないよう毎日を精いっぱい生きて、その時を迎えたいと思います。
節子さんのご冥福をお祈りいたします。
可能なら、あちらの世界でお会いしたいです。
北千住のスピリチュアルな占い師 安 寿