アーミッシュの電気を使わない昔ながらの不便な生活は、人と人との助け合いで成り立っています。
子供たちは幼いころから大人たちの中で助け合いの大切さを自然に学びます。
「誰かのために行動することがただ相手の役に立つだけでなく、相手にも自分にも幸福感と優しさをもたらすことを身をもって感じてきた。だからこそ、彼らは周囲からの温かい申し出を喜んで受け入れる。―中略―『自分でできるから』と拒絶したり遠慮したりせず感謝して受け入れることが互いを幸せにすることをよく知っているのである。」(引用文は全て「アーミッシュの老いと終焉」より)
『周囲からの温かい申し出を喜んで受け入れる』この言葉は私に大切なことを教えてくれました。
人に何かすることは積極的に心がけてきた私ですが、していただく時には申し訳ないとかすごく遠慮してしまう自分がいます。
して下さる方にも『幸福感と優しさをもたらす』のですよね。
確かに人に親切にすると、自分が少しお役に立てたことが嬉しくて、とても気持ちがよくなります。
たとえ相手の方が喜んでくださらなくとも、神様が喜んでくださると思うと励まされます。
年を取ってどんどんできないことが増えていき、誰かのお世話なしでは生きられなくなった時に、この言葉はたくさんの遠慮がちなお年寄りの気持ちを和らげてくれると思います。
この事を知っていれば、穏やかな気持ちでお世話になれます。
「世話になりたくない。」「迷惑をかけたくない。」という気持ちで自立を心がけることは大切かもしれませんが、その事にあまり囚われれば、かえって可愛くないお年寄りになってしまうかもしれません。
恐縮ばかりしていないで、明るく素直に感謝して援助の申し出を受け入れられる自分になりたいと思います。
昔はもっと助け助けられる人と人とのネットワークがありました。不便な分、貧しい分、助け合わなければ生きていけない厳しさがあったのだと思います。
そこには個人の自由を押し潰してしまうマイナスの部分もあったに違いありません。
そんな息苦しさや束縛を嫌い、社会の発展と個人の生活基盤の変化により、特に先進国では個人の自由や欲求を大切にする社会を求め、核家族化が進んだのでしょう。
「お互いに頼んだり頼まれたりすることへの遠慮やわずらわしさ」から逃れるため、引っ越し、冠婚葬祭、保育、介護、掃除などの日常生活の外注化も進みました。
「社会が複雑になり、各々価値観や生活様式、生活時間帯までもさえ多様化している昨今、親戚や近隣の人たちとの密接なかかわりが互いの負担になりかねない事をそれぞれが分かっている。手助けしたくても、時間的、物理的な負担が大きすぎる。日常生活の外注化は、気楽で合理的な暮らしをもたらしてくれる半面、地域とのかかわりの希薄さが地域への帰属意識を薄れさせ、自分のルーツの見えにくさが、私たちに根なし草のような寄る辺のなさを感じさせるし、子供の経験値アップにつながりにくいという問題点もある。」
確かに今の若いお母さんたちの中で、子供の頃子守を経験したことがある人はごく少数ではないでしょうか?
私は小学生の頃、年の離れた姉たちが里帰りしてきた時、姪や甥の子守をさせられていました。時には近所の子供の子守をしたこともあります。
妹や弟をおんぶして一緒に遊んでいた子もいました。
自分が母親になった時は仕事をしていて出産前の講習会に参加できませんでしたが、母や姉が赤ちゃんをお風呂に入れたりおしめを変えたりするのを見ていましたし、その経験のお蔭で自然に赤ちゃんの世話ができたと思います。
お爺さんお婆さんが身近にいなくて、人が老いていくのを経験せず大人になっていく子も多いでしょうね。
我が家もそうですが、そういう子供たちに自分の老後はお願いできません。
アーミッシュのコミュニティには助け合いという人間関係があり、昔の暮らし方を維持するための厳しい決まりがありますが、息苦しさや束縛を感じないのでしょうか。
アーミッシュだって人間関係を煩わしい、規則が重いと感じることはあるでしょうが、彼らと一般の人が違うのは、決まり事や助け合いが、コミュニティや人から強制されたものではない事と信仰心の強さだと思います。
アーミッシュは、人は一人一人が「神の善」を実現するための役割を果たしているという強い信念を持っています。
「個人と他者とのかかわりの中での自分ではなく、神という絶対的な存在を通じて他者と関わっている。このことが彼らの強い絆を生み、安心感をもたらすのである。」
「アーミッシュは全ての人には神から与えられた役割があり、それぞれが今置かれている場所でその役割を果たしていると考えている。それが相手を尊重し、さまざまな立場や状況の人たちの言葉に耳を傾け、その行動から多くを学ぶ姿勢につながっている。」
「完璧な友人を求める者は、ずっと独りぼっちだ」
つまり、人は不完全であり、お互いが許し許され、受け入れ合う存在であることを知っていて、またそれを日常的に実践している人たちだという訳ですね。
このような思いを持つ人々の中で暮らせたら、70歳すぎてもまだまだ未熟な私も許され受け入れられて、穏やかに暮らせそうな気がします。
「えぇ?アーミッシュの人たちってそんな穏やかな人格者ばかりなの」と思われる方もいらっしゃるでしょう。
その方に、次の言葉を贈ります。
「私たちは特別な人間ではない。怒ったり妬んだりするし、言い合いをすることだってある。 -中略― イエスと同じ行いをする聖人君子などではなく、そのように生きたいと努力しているだけの存在にすぎないのよ」
『そのように生きたいと努力する』この事が本当に大切なのですよね。
アーミッシュもキリスト教徒。でも同じキリスト教のローマカトリックが彼らを迫害し、拷問にかけ、殺したのです。
同じ聖書に書いてあることを学んだはずの人たちがこうも違うのはなぜでしょう。
権威の上に胡坐をかき、神の言葉を自分に都合の良いように解釈してしまうからなのでしょう。
「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」と、たしかイエス様がおっしゃったはずなのに、世界中のキリスト教国の人たちはあちこちで戦争を起こし、市民まで殺しています。
人が飢えているのに、莫大な費用をかけて人類が滅亡するほどの殺りく兵器を生産しています。
信仰は知識ではなく実践です。その意味でアーミッシュを見習いたいと思います。
キリスト教だけでなく、どんな宗教でも平和を説き、愛を説いているはずです。
人間同士も、人間と自然も調和していかなければ、人類はやがて滅んでしまうのではないでしょうか。
世界中の人がそれぞれの宗教のことばを正しく理解し、それを実践してゆけば、どれだけ世界は平和になり、調和が実現されていくことでしょうか。
ため息が出るばかりです。
嘆いてばかりもいられません。
神様のために残り少ない命を役立てるにはどうすればいいか教えて下さいと毎日祈りつつ、今、自分が置かれている場所で、自分にできることを精いっぱい頑張るのみです。
北千住のスピリチュアルな占い師 安 寿