年明け早々、トンガで火山の大噴火。毎朝聞いているFⅯラジオからはずっと津波の情報が繰り返し流れていて、緊張感が伝わってきます。
ここ数年、毎年のように世界各国で、もちろん日本でも大洪水や大規模な山火事が発生し、昨年のアメリカの大規模竜巻とか、人間の自然環境破壊に対する大自然の怒りのようなものを感じます。
自然環境をこれ以上に悪化させないために、人間は、特に先進国の人間は、今までのような便利で快適な生活を求めてはいけないのではないかとずっと思ってきました。
大量生産大量消費が地球環境を悪化させたことは間違いないのですから。
便利で快適な生活と引き換えに失ったものは、自然環境ばかりではありません。
利益や効率ばかりが求められる切り捨て御免の激しい競争社会。自己責任論。貧富の格差や人々の分断、分裂。
17歳の高校生が東大前で人に切りつけたり放火しようとしたというニュースもありました。
人の心に余裕がなくなり、だれもが精いっぱいで、若者の心までが蝕まれてしまうような世の中になった原因も根は同じだと思います。
そんな時、ふと目にしたのが堤純子さんの『アーミッシュの老いと終焉』(未知谷)という本でした。
(以下、「」内の引用は全て『アーミッシュの老いと終焉』(未知谷)からの引用です)
アーミッシュという言葉ですぐに思い浮かんだのが彼らの古風で独特な服装と畑で祈りをささげる情景で、昔の生活を守り続けている彼らの暮らしの中に何か学ぶものがあるのではないかと思いました。
アーミッシュというのはアメリカのペンシルバニアを中心に、1800年代の農村の暮らしを200年以上も守り続けて暮らしている人たちです。
電気や自動車、自転車、テレビやラジオはもちろん、洗濯機や冷蔵庫もない不便極まりない暮らしを、なぜ彼らは続けているのか、実際どういう暮らしなのだろうと興味津々でさっそく読んでみました。
アーミッシュは、ローマカトリック教会からの弾圧を逃れて、アメリカのペンシルベニヤに1737年に移住してきたプロテスタントの人たちで、わずか21家族から始まったコミュニティーだそうです。
彼らはイエスの教えを尊重し、それを日常生活に取り入れることを旨とし、お互いに助け合いながら暮らしています。
30世帯ほどの教区を中心に一つのコミュニティーが形成され、教区内ではもちろん、各教区も密接な助け合いのネットワークで結ばれているのです。
彼らの助け合いの根底には、「小さきものに奉仕することは神に奉仕する事である」というイエスの教えがしっかりと根付いていますから、助け合う事がごく自然なこことして、また喜びをもって行われています。
教区の中心である教会の司祭や役員を選ぶことも、日常生活の約束事を決めることも、全て皆の話し合いで決まるという、徹底した民主主義が行われているようです。
決定に至るまでに徹底した話し合いがもたれ、コミュニティーの存続を大前提に、アーミッシュとしてどう生きるべきかを念頭に置いて、お互いの権利を尊重しながら話し合いを重ねるのだそうです。
だからアーミッシュの中でもその教区によって日常生活の決まり事は異なっています。例えば最近では仕事に必要な携帯電話やパソコンなども制限付きで認めている地区もあるのだとか。
なぜ彼らはこんな不便な生活を続けているのでしょうか?
それはイエスの教えを守るためなのです。
「人間の欲にはきりがなく、便利でいいものを手に入れればもっと多く欲しがるようになり、持つ者と持たざるものを生み出す。そこに悪しき自己中心や傲慢さ、妬みなどが生まれ、それが人間関係にひびを入れる。人間は弱い。自制していても欲にかられ所有欲を満たしたくならないとも限らない。だから一般社会と一線を画し、世俗に染まることなく、イエスの教えに沿って生きるため、便利な発明品の利用を規制している」という訳です。
日常生活に便利なものを取り入れるかどうか決める時も、イエスの教えに反することにならないかどうかがその判断基準になるという事です。
彼らにとっての規制は人から押し付けられたものではなく、自分たちが納得して決めたことだから、不平不満が出ることはありません。
カトリックでは幼児洗礼ですが、アーミッシュは成人してから自分がアーミッシュになるかどうかを決めます。
アーミッシュには自分たちの学校があり、そこを卒業すると、ラムシュプリンゲという期間が設けられ、若者たちはアーミッシュの制約から解放され、家族の一員としての仕事以外、自由に行動することが許されます。
彼ら若者がマックでアルバイトをしたり、若者同士で部屋を借りたり、酒を飲んだり一般の若者がすることを自由に経験するのは言うまでもありません。
「洗礼を受けるかどうか迷いながら若者たちは外の世界でさまざまな経験をし、最終的な決定を下す」のです。
その期間は決められておらず、それぞれが心を決めた時がラムシュプリンゲ終了の時です。
若者の実に80%から90%がアーミッシュとして洗礼を受けることを決めるそうです。
やはりアーミッシュの暮らしには、人を惹き付ける強力な魅力があるようです。
だからアーミッシュの人口はどんどん増えています。20世紀始め約5000人だったアーミッシュが、2018年には325,000人です。
もちろんアーミッシュの家庭は子沢山で一家族7人以上の子供がいますが、でもその子供たちがアーミッシュを選ばなければ増えることはありません。
「神は『富を得ようと苦労してはならない。賢く思いとどまるがよい』とおっしゃる。お金や物は持てば持つほど欲しくなるし、手に入れようとアクセクすると、心の平安とゆとりをなくしてしまう。また、神がお嫌いになる『高ぶる心』つまり、うぬぼれと思い上がりが生まれる。」
というアーミッシュの人の言葉は本当にその通りだと思いますが、現代の都会での生活は何かとお金がかかり、嫌でもアクセクせざるを得ない面もあると思います。
それでもやはり、物は最小限で、出来るだけ質素に暮らすことが心の平安と自然環境に優しい暮らしだという事は言えるでしょう。
戦後すぐ生まれた私の子供時代は、電話もクーラーもテレビも冷蔵庫も洗濯機も石油ストーブすらありませんでした。
夏デパートに行くと大きな氷柱が所々に置かれていて、そこにハンカチを押し当てて自分のおでこを冷やしたり、夏は日向にたらいを出して、子供は太陽光で温まったたらいの水で行水です。
冬は父が外で練炭に火をつけて、部屋の火鉢まで持ってきます。その練炭に灰をかけて火鉢にいけるのが、当時小学校低学年だった私の役目で、結構上手にやって楽しんでました。
練炭で餅を焼いたりスルメを焼いたり、ふざけてミカンを焼いたりして、それも楽しい思い出です。
部屋を暖めるだけのエアコンやガスストーブでは遊べませんよね。
考えて見れば、昔の暮らしは親たちは大変だったと思いますが、子供には喜びや楽しみの多いものだったような気がします。
大人たちも、町会の活動や地域のお祭りを楽しんだり、寄り集まっては井戸端会議に花を咲かせたり、なんだかゆとりがあった気がします。
アーミッシュの人たちにはかないませんが、そんな経験をした私たち世代は、今昔に戻ったとしても、何とか生きて行けそうです。
工夫しながら生きるのも楽しいですしね。
私の年頭の誓いは、まず物を買わない、捨てない、出来るだけリサイクルしゴミを減らすですかね。
特にビニールやプラスチック製品はできるだけ使わないようにするとか。
ささやかな抵抗ですが、やる気が大事。これまで以上に頑張ります。
北千住のスピリチュアルな占い師 安 寿