安寿の小径

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遠藤周作著『イエスの生涯』を読んで 本当の信仰心とは?

ある猛暑日、少し涼もうと近くの本屋さんに飛び込み、遠藤周作著『イエスの生涯』という本と出会いました。

 

ずいぶん昔、まだスピリチュアルリズムと出会う前、遠藤氏の『沈黙』を読んだ事があって、踏み絵を拒んだ勇気ある信者たちが、ひどい苦しみの中で殉教していくのを、なぜ神は黙って見ていらしたのか、ずっと心の隅に引っ掛かっていたので、この本と出会ったのでしょう。

 

人が神や仏を信じるのは、神や仏によって、現実の苦しみから逃れたい、救われたいからというのが一般的な考え方でしょう。

 

エスのもとに集まってきた人々も、イエスに現実の苦しみを救ってもらいたくて集まってきました。

そしてイエスは、目の見えない人の目を治し、歩けなかった人の足を治すなど、数々の奇跡を行い、救世主と崇められるのですが、群衆のイエスに対する期待はどんどんエスカレートし、イスラエルをローマの支配から解放するための救世主となることまで期待するようになります。

 

エスが伝えたいのは本当の救い、神の愛なのですが、彼の弟子たちを含めて、一般の人々が求めるものは、奇跡によって、現実の苦しみから解放されることだけなのです。

 

『神の愛の神秘』は直接人々を現実の苦しみから救い出すことにはありません。

現実の苦しみによって人は鍛えられ、魂を磨かれ、自分の霊性に気付いて行くのですから。

神の愛は、苦しみを背負った私たち一人一人を見守り、励まし、力づけ、慰め、時には癒し、一人一人がちゃんと重荷を背負いきるまで寄り添い続け、見届けて下さることにあるのです。

 

スピリチュアリズムを勉強した今だから、『神の愛の神秘』が多少なりとも分かりますが、今よりずっと過酷で残酷な時代に生きていた人々にとって、神に現実の苦役から逃れるための救いを求めるのは当然だっただろうと思います。

 

『現実的な効果』を強く求める人たちに『神の愛』を伝えるのはとても難しく、イエスの苦悩は深くなってゆきます。

 

エスが奇跡をおこなわず、群衆の期待にも応えないと知ると、群衆は離れて行き、弟子の多くも去り、残った数人の弟子と預言者エスを迎え入れてくれる場所はなくなって行きます。

 

残った弟子たちも『確かにイエスに対する期待を半ば失っていた。』と遠藤氏。

『彼等がイエスの愛の思想を理解してその弟子になったと考えるのは間違いである。』と。そして更に遠藤氏は、彼らはイエスを『神の子』とも考えていなかったと言います。

 

エスは自分が逮捕され、処刑されるのを知っていました。

そしてその時、弟子たちが自分を裏切るのも知っていました。

 

果たして、ユダの裏切りにあってイエスが捕らわれた時、弟子たちは師を捨てて逃げたのです。

『要するに彼等は我々と同じように、よき話を聞こうという気持ちは多少あっても、信念弱く、肉体的恐怖のためには師も犠牲にする卑怯な性格があり、そのくせ自惚れと世俗的野心のみ強いという平均的人間だったのである。(中略)

そのような弱虫――少なくとも強い信念の所有者ではなかった――彼等がイエスの死後、なぜ目覚め、たち直り、イエスの真価を初めて知ることができたのか、なぜ彼等が内部的な変貌をとげて、弟子から使徒に変わることができたのか。』

エスの死後、その弟子たちからイエスは『愛のメシア』として仰がれるようになるのです。そこに遠藤氏はイエスの『復活』が関わって来るのではないかと推理していますが、その謎については、ぜひこの本をお読みください。

 

人々の期待する救世主となることを拒否して後のイエスは、奇跡をおこなわず、力なく無力に見え、一時はメシアと自分を称えた群衆が、今度は彼を嘲笑し、唾を吐き、兵士たちの鞭を受けるようになるのです。

 

『だが我々は知っている。このイエスの何もできない事、無能力であるという点に本当のキリスト教の秘儀が匿(かく)されていることを。そしてやがて触れねばならぬ「復活」の意味もこの「何も出来ぬこと」「無力であること」をぬきにしては考えられぬ事を。そしてキリスト者になるというのはこの地上で「無力であること」に自分を賭けることから始まるのであるということを。』

 

『なぜなら愛というものは地上的な意味では無力、無能だからである。(中略)イエスはこの十字架で無力であることによって、愛のシンボルに、愛そのものになっていったのだ。』

 

「主よ、彼等を赦したまえ。彼等はそのなせることを知らざればなり」

エスは十字架の上で苦しみつつなお、彼に苦しみを与えた人たちのために祈り、神に許しを請うのです。

 

エスが十字架の上で最後に言ったという言葉

「主よ、主よ、なんぞ我を見捨てたまうや」

この言葉だけを聞きかじっていた私は、イエスが神を恨んだまま亡くなったのかと勘違いしていました。

でもこの言葉から始まる詩編第22編は続きがあり、神の賛美へと続くのです。

そして詩編第31偏へと転調していったのだそうです。

「我、わが魂をみ手に委ねたてまつる。

主よ まことの神よ

汝は我をあがなわれたり」

 

エスは人間が味わう全ての苦しみを背負い、その重さに耐え、それでも神を信頼しすべてをゆだねました。

父なる神は苦しむイエスをじっと見守り、最後にその苦しみをあがなわれたのです。

 

これが神の愛であり、信仰なのですね。

 

信仰するというのは、神様から現世的に、物質的に助けていただく事を願うのではなくて、弱い自分、無力な自分を見守り、支え、ぴったり寄り添っていただいている神を信頼し、自分をゆだねる事なのですね。

 

家族や自分の健康の問題、将来のことなど、この世にいる限り、お金がいくらあっても、不安からは解放されません。

しかし神を信じれば、不安は無くなります。

 

どんな苦しい現実が押し寄せようと、自分の苦しみを100%分かってくれる存在がいる、どんな時にも自分を見守り、寄り添ってくれる存在がいる、頑張れば、最後には必ずあがなってもらえると信じられるだけでずいぶん人は強くなれるのじゃないかと思います。

 

カルマも罪も無い神の子イエスが味わった不条理や屈辱や苦痛を考えれば、たいていの事は我慢できそうです。

また一段と信仰心が深まり、不安の影も薄くなりました。

この本に出会えた事に感謝です。

 

 

 

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