遠藤周作さんの『イエスの生涯』を読んでから、やっぱりイエス様ってすごい方だったなあとつくづく思うのです。
そうクリスチャンの友人に話すと、「だって神の子だもの、どんな苦難にだって耐えられるわよ」とこともなげにおっしゃる。
彼女はイエス様を「特別な『神の子』」だと考えるのでしょうが、私には、この世に生きていらした時は、血も流れれば、痛い思いもする、私たちと同じ生身の人間だったとしか考えられないのです。
それだからすごいと思うのです。感動するのです。
イエス様が現れるまでの神は、人間に正しい道を示す一方で、人間が道に背けば容赦ない罰を与える厳しく、怖ろしい神のイメージでした。
イエス様は神が人間を裁く存在ではなく、許しと愛に満ちた存在なのだということを伝えるために、この世に肉体を持って生まれてきたのです。
イエス様が私たち普通の人間と同じ肉体に生まれたことにはとても大きい意味があると思うのです。
いくら高貴な魂であろうとも、肉体に宿れば、肉体的な欲望の影響を受けないわけにはいかないからです。
お腹もすくし、眠くなるし、痛いし、痒いし、暑いし、寒いし、肉体を失う死の恐怖もあったでしょうし。
真実の神の愛を伝え、人類を救済する役目を背負ったイエス様は、光の国である神界から、暗く淀んだ、粗い波動のこの世に肉体をまとって生まれ、この世の様々な苦労、精神的肉体的苦労を身をもって体験されました。
神の子だからと言って、その苦痛が減ぜられるわけではないでしょう。私たちと同じはずです。
そうでなければ、肉体を持って生まれた意味がないからです。
イエス様はその最期の苦痛までも味わい尽くそうとするかのように、処刑前に罪人の苦痛を和らげるために与えられる飲み物も拒否なさったのですから、その覚悟のほどがわかります。
私たちは、イエス様の経験なさった苦しみのほんの少しずつを経験しているにすぎませんが、イエス様は人類が味わうすべての苦しみを短い生涯のうちに経験なさったのです。
そして反論一つせず、人類の苦悩のすべてを味わいつくして、神を讃えつつ亡くなったのでした。
人々から軽蔑され、見捨てられる苦しみや悲しみ、誰にも理解されない孤独、弟子たちの裏切り、無実の罪で鞭うたれ処刑される不条理、殺される苦痛と恐怖、飢えと渇き。
いくら人類救済のために必要な経験だったとはいえ、あまりに過酷で、それでも神を信じ、神にすべてをゆだねられたイエス様のお姿に心打たれずにはいられません。
イエス様って、本当にすごい方だったのだなあと思います。
日本でも、キリシタン弾圧で、罪もない人々が殉教しました。
その方たちの信仰を支えたのも、イエス様のお姿だったのでしょう。
イエス様が経験されたこの世の不条理は、残念ながらいまだ世界中に蔓延しています。
だからこそイエス様が現した信仰心の強さが今の人々にとっても救いとなるのです。
人生が順調な時はちゃんと感謝もするのに、ちょっとつまずくと日ごろの信仰心はどこへやら、オタオタし、感謝の祈りも忘れて、なかなか好転しない事態に、神様を恨めしく思ったり。
こんな頼りない私が、肉体的にも、精神的にも経済的にも、これからますます厳しくなっていく老後の生活を前向きに生きていかれるように、今回、この本と出合ったのだと思います。
イエス様の苦労を考えれば、たいていのことは耐えられそうな気がします。
イエス様の生涯は、今や私の心を支える大きな力となりました。
取り越し苦労はやめて、先のことはすべて神様にお任せして、とにかく許された時間に感謝して、自分にかかわる物事、人間関係をおろそかにせず、一日一日をできるだけ丁寧に、心を込めて過ごそうと思います。
北千住のスピリチュアルな占い師 安 寿