安寿の小径

北千住のスピリチュアルな占い師 安寿のブログ http://anju.cho88.com/

母の日に想う

母の日に、長男がお寿司をご馳走してくれ、遠方に住む次男からは、カーネーションと観葉植物の寄せ植えが送られてきて、幸せな一日を過ごしました。
私なりに精一杯頑張って来たのですが、母親としても大変未熟で、子供たちから毎年プレゼントをもらうのもちょっと面映ゆい気がします。


『慈母』という言葉があるように、母親というのは愛情深いものだというのが世界共通の考え方のようですが、その思い込みが子供を愛せないと悩む母親の苦しみを増し、理想像から外れている母親に対する世間の批判、子供の不満を生み出す原因になっているのではないかという気がチラリとします。


本来未熟である人間が、母親になったからといってみんな愛情深くなれるわけではありません。
日々母親の役割をこなしながら子供に対する愛情を育て、それぞれの母親像を模索し、いびつで不完全ではあっても、その人なりの『母親』になって行くのです。


どんな事でも、うまくできる人と、できない人がいるように、うまく母親役がこなせない人もたくさんいるはずです。
母親は、眠くても夜中にお乳を飲ませたり、オシメを取り替えたり、むずかる子をあやしたりなど、自分のやりたい事よりも、子の世話を最優先しなければなりません。
母親はいろんな場面で自己犠牲を強いられます。
子育ては我慢と忍耐、思いやりです。
その苦労の分だけ母親は、子供から愛情と信頼を受け取るのです。


ですから、育つ過程で我慢する事や忍耐力を身に付けられなかった人や、我儘で自己中心的に育った人は、子育ての苦労がかなり大変なものだと感じられるでしょう。
また、そういう母親を持った子供も苦労するでしょう。


「さんざん苦労したのに、子供たちはちっとも感謝しない」と嘆いている母親がいますが、「苦労した、苦労した」という人ほど自己中心的だったりするのです。
忍耐強い人は、苦労したとはあまり言いませんから。


占いの仕事をしていると、母子関係で悩んでいる人はけっこう多いものだと気付かされます。
私自身も、子供の頃から、50歳を過ぎるまで、ずっと母親の事で悩んできました。
私自身、ずいぶん育てにくい子供だったと思いますし、姑との確執、戦中戦後の母の苦労など、今なら母の心情を思いやることもできますが、子供の頃、母親が、一歳違いの姉ばかりをかわいがると感じていて、胸の中に埋められない穴があいているようで、ずっと寂しさを感じていました。


母に認められたくて『良い子』を演じても、年子の姉と喧嘩すると、必ず母は姉の味方をし、それが悔しくて、いつも最後は母と口論になってしまうのです。
母の愛情が欲しくてたまらないのに素直になれず、ますます反抗的な子供になってしまうという悪循環でした。


たとえば皆でどこかへ行こうという時にも、私は必ず「行かない」と意地を張ります。
母に、何度も誘ってほしいのです。母がどう誘うかで母の愛情を量っているのでした。
「この子はいつもこうなんだから。いいから放っておきなさい。」と母が姉たちに宣言し、姉たちも誘うのをやめて、みんなで出かけてしまった後の家の中で、わたしは一人寂しさを噛みしめていました。


その頃の私は心の傷にトゲを生やし、攻撃的で、周りの人の気持ちを考える余裕がありませんでしたから、とても自己中心的だったと思います。
唯一救いだったのは、私には姉たちが5人もいたことです。
一つ年上の姉はライバルでしたが、年の離れた姉たちは、末の二人を平等に扱ってくれました。そのお蔭で、私は何とか心のバランスを保っていたと思います。


私は、我が強く、我儘で自己中心的な母親に一番似ていたのかもしれません。
そして反抗していたのに、なぜかとても影響を受けていました。


今も私はずいぶん未熟な人間ですが、昔はもっともっと恥ずかしいくらい未熟で、友達もできず、孤独でした。
心にあいた穴はブラックホールの様に、いくらでも愛情や友情を欲しがるのです。
普通なら相手に期待しても、6,70%くらいで満足するのでしょうが、私は120パーセントくらい満たしてくれることを期待するのですから、人間関係がうまくいくはずがありませんし、心が満たされるはずもありません。


心の穴は結婚しても、子供ができても埋まることはなく、『子をもって知る親の恩』と言いますが、子供を持っても母親に対する飢餓感は、薄まることがありませんでした。


以前『日本一短い母への手紙』という本があって、その中に確か「今でも弟の方がかわいいですか?どうでもいいけど」という内容の50代男性の手紙があって、私と同じように年齢を重ねても、満たされない寂しさを抱えた人がいるのだと共感した事がありました。


私の場合は、その寂しさの原因を知りたくて、50代になって占いや精神世界の勉強、心理学の勉強を始め、やっとその気持ちから解放されたのです。


未熟ではありましたが、母は母なりに私を愛してくれていたんだと気が付いたからです。
愛情をケーキに例えるなら、姉に与えたケーキのほうが幾分か大きかったとしても、私もケーキをもらっていたのです。
でも母を恨んでいた頃はその事に気が付かず、姉がもらったケーキばかりに気を取られていて、自分には何も与えられていないように感じて、寂しかったのです。
「そんなに少しなら、いらない!」と自分のケーキに針を刺して、受け取り拒否をしていたのかもしれません。


よく考えてみれば、足をねん挫した時、母が背負って医者に連れて行ってくれましたし、母が私のためにしてくれたこともいろいろあったのです。
私は自分と姉を比較するのをやめ、母が私に与えてくれたものだけを見つめることにして、母に対する恨めしいような気持ちや憎しみをようやく手放すことができました。


なるべく母の心情を思いやるようにして、母と衝突しないようにしていたのですが、軽い認知症になってからの母は、一歳年上のお気に入りの姉と私を除いた娘たちみんなを拒絶するようになりました。
娘たちは母親に尽くすのが当たり前だというのが昔からの母の考え方で、四人の姉たちが母を大切にしていないと怒るのです。
それを私がたしなめたことで、私を露骨に拒むようになりました。
母の憎悪が激しい分だけ、私も母を傷つけていたのかもしれません。


私は母のすぐ近所に住んでいたのですが、母に拒絶され、母の世話もできず、家に入ることもできず、陰でヘルパーさんたちと連絡を取りあい、遠くから母を見守っているしかありませんでした。


母が肺炎にかかり入院することになりました。
占うと、もう今度は危ないかもしれないと出たので、私は罵られるのを覚悟で母の病室に行きました。
母は個室に一人で寝ていました。寂しそうで、心細そうでした。
「お母さん」と声をかけると、母は私の顔を見るなり泣き出し、初めて私に謝ったのです。
『あんたの気持ちは分かっていたけど、わがまま言ってたのよ。甘えていたんだね。』と言って泣いたのです。
もうその言葉だけで、私には十分でした。私は母の全てを赦しました。
二人で手を取り合ってしばらく泣いてしまいました。
私の人生で奇跡が起こった瞬間でした。
それから一週間後に母は眠るように旅立ちました。


その間、姉妹が交代でずっと付き添い、それまで娘たちを拒絶してきた母は和やかに幸せそうでした。
母自身が娘たちを拒んだのですが、お正月も誰も来ず、本当はすごくさびしかったのだろうと思います。意地を張って、みんなに置いて行かれた昔の私のように。


子供は生まれてくる時に、この世での課題を果たすために、一番適した親や環境を選んで生まれてくるのです。
それは占いでも暗示されます。


将来、離婚するような親の元に生まれる子供の宿命には、母親か父親、あるいは両方の親の星が無い場合がとても多いのです。
離婚したいという人の宿命を見る時には、あわせて子供の宿命を見ると参考になります。
子供の宿命は親の将来を暗示しているのです。


私は、優しい所もありながら、とても我の強い、我儘で自己中心的な母親を選びました。
なぜなら私自身がそうであることを知るためだったようです。
また、母は私に神仏を敬う心を与えてくれました。
今の私があるのはそのお蔭です。


母が生き様を見せてくれたことで、私はそこからいいことも悪い事もたくさん学び、自分自身に気付くことができ、さらに母の信仰心によって霊的真理に導かれたのですから、今は母に感謝の気持ちでいっぱいです。


今はまだ、私の信仰心を息子たちに十分伝えられていませんが、言葉ではなく、私の生き様、死に様から、やがてはそれを感じ取ってもらえるよう、しっかり生きて、安らかに旅立てるよう、人生の最終章を頑張っていくつもりです。




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